麻田郡(マジョンぐん、までんぐん、朝鮮語: 마전군)は、かつて大韓民国京畿道にあった郡であり、後の漣川郡嵋山面麻田里マジョンニ(마전리)を中心に、漣川郡嵋山面、旺澄面、百鶴面を含む範囲から成っていた。仁川広域市西区の麻田洞とは別である。

由来

本来の名称は、麻田浅マジョンチョン(마전천)、ないし、泥沙波忽ニサパホル(니사파홀)といった。『三国史記』新羅本紀の真平王4年の記述には、麻知峴城マジヒョンソンという名で出てくる。

歴史

  • 本来は、百済の領域であったが、高句麗の麻田浅マジョンチョン県(마전천현)になった。イサン面トンイ里の漣川堂浦城ヨンチョンダンポソン(연천당포성)は、考古学調査によって、この城は高句麗によって築造されたと考えられている。
  • 757年(新羅景徳王16年):名称を臨湍イムダン県(임단현)と改め、牛峰ウボン郡(우봉군:後の黄海北道金川郡峴内里(현내리)、かつての牛峰面)の一部とした。
  • 高麗時代に入り、麻田マジョンと呼ばれ始めた。
  • 1018年(高麗顕宗9年):長湍郡(장단군)の管轄下になった。
  • 1062年(高麗文宗16年):開城府直属になった後、県監が置かれた。
  • 1414年(朝鮮太宗14年):漣川県と合わせて麻漣マリョン県(마련현)になり、後に再び分割された。
  • 1452年(朝鮮文宗2年):高麗の七王(高麗太祖・恵宗・定宗・光宗・景宗・成宗・穆宗・顕宗)と、鄭夢周など15人の高麗時代の功臣を祀る祠堂である崇義殿が建立され、郡に昇格して麻田郡になった。
  • 1906年9月24日 - 長湍郡長東面・江東面および積城郡河北面を編入。それぞれ長新面・江新面・河新面となる。
  • 1914年4月1日:漣川郡に編入されて廃止。
    • 当時麻田郡には7面があった。:江新面・北面・西面・東面・郡内面・河新面・禾津面
      • 江新面 北面 西面の一部 漣川郡西面 → 旺澄面ワンジンミョン(왕징면)
      • 東面 郡内面の大部分 西面の一部 → 嵋山面ミサンミョン(미산면)
      • 河新面 長湍郡長新面(장신면)の一部 → 百鶴面ペッカンミョン(백학면)
      • 禾津面 漣川郡南面 → 郡南面クンナンミョン(군남면)

脚注


虻田郡 Abuta District, Hokkaido JapaneseClass.jp

麻田镇图册_360百科

Vol.3 村田を駆ける|村田の歳時記 村田の薫りを纏う旅|宮城県柴田郡村田町

〈歴史道を旅しよう〉「日本一兵」真田一族が治めた地ゆかりの城を巡る絶景ドライブ「真田街道」(群馬県・片品村~長野県・上田市) 男の隠れ家デジタル

麻田の景色3_人民中国