石田 三成(いしだ みつなり)は、安土桃山時代の武将・大名。豊臣家家臣。豊臣政権の奉行として活動し、五奉行のうちの一人となる。豊臣秀吉の死後、徳川家康打倒のために決起して、毛利輝元ら諸大名とともに西軍を組織したが、関ヶ原の戦いにおいて敗れ、京都六条河原で処刑された。
生涯
永禄3年(1560年)、石田正継の三男として近江国坂田郡石田村(現在の滋賀県長浜市石田町)で誕生した。幼名は佐吉。長男・石田弥治郎は早逝している。 石田氏は平姓または藤原姓を称しており、その発祥は定かではない。北面武士であった下毛野朝臣の一族、もしくは三浦氏流蘆名支流である相模国大住郡糟屋庄石田郷(現・神奈川県伊勢原市石田)の住人石田為久(為重)の後裔であったともされる。石田村は古くは石田郷ともいい郷名を苗字とした土豪であったともいわれている。
石田三成の名の読みについては、江戸時代成立の『甲子夜話』などに「かずしげ」とする説があるが、自筆の仮名消息が現存しないため確定はできない。若年期の署名として「三也」と記されたものが存在し、初名であるとする説や、「成」と「也」を併用していたとする説もある。関ヶ原後に三成から一字を与えられた相馬三胤が「蜜胤」に改名していることなどから、現在では「みつなり」と読むのが妥当とされている。
羽柴秀吉が織田信長に仕えて近江長浜城主となった天正2年(1574年)ごろから、父・正継、兄・正澄とともに秀吉に仕官し、自身は小姓として仕える(天正5年(1577年)説もある)。秀吉が信長の命令で中国攻めの総司令官として中国地方に赴いたとき、これに従軍した。
天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変により横死し、次の天下人として秀吉が地位を固めるにつれ、三成も秀吉の側近として次第に台頭してゆく。天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家軍の動向を探る偵察行動を担当し、また先駈衆として一番槍の功名をあげた(『一柳家記』)。天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いにも従軍。同年、近江国蒲生郡の検地奉行を務めた。
豊臣政権下
天正13年(1585年)7月11日、秀吉の関白就任に伴い、従五位下・治部少輔に叙任される。同年末に賤ヶ岳7本槍が4000〜6000石の加増なのに対し、秀吉から近江国水口4万石の城主に封じられたと一般にはされているが、水口には天正13年7月に中村一氏が6万石で入っており、その後は同18年(1590年)に増田長盛、文禄4年(1595年)に長束正家と引き継がれている。
天正14年(1586年)1月、当時名将として名高かった島清興(左近)を知行の半分を与えて召し抱えたといわれる(『常山紀談』。異説あり)。秀吉はこれに驚愕、賞賛し、左近に三成への忠誠を促し、菊桐紋入りの羽織を与えた。同年、越後国の上杉景勝が秀吉に臣従を誓うために上洛してきたとき、これを斡旋した。
また、秀吉から堺奉行に任じられる。三成は堺を完全に従属させ、兵站基地として整備する。秀吉は翌天正15年(1587年)の九州平定に大軍を動員し、比較的短期間で終わらせるが、その勝因の一つは水軍を最大限に活用して大軍を動員・輸送する能力があったことである。こうした秀吉の遠征を支えたのが、後方の兵糧・武具などの輜重を担当した三成ら有能な吏僚達であった。
九州平定後、博多奉行を命じられ、軍監の黒田孝高らとともに博多町割り、復興に従事した。また、天正16年(1588年)、取次として薩摩国の島津義久の秀吉への謁見を斡旋した。
天正17年(1589年)、美濃国を検地する。天正18年(1590年)の小田原征伐に参陣。秀吉から後北条氏の支城の館林城、忍城攻撃を命じられる。忍城攻めでは元荒川の水を城周囲に引き込む水攻めが行われ、その際の遺構が石田堤として周囲に現存している。関東各地の後北条氏の支城はほとんどが本城である小田原城よりも先に陥落したが、忍城では小田原開城後の7月初旬まで戦闘が続いた。なお、三成は取次として、常陸国の佐竹義宣が秀吉に謁見するのを斡旋し、奥州仕置後の奥州における検地奉行を務めるなど着実に実績を重ね、吏僚としての功績は大きかった。
天正19年(1591年)4月、近江佐和山に入城する。ただし、これは蔵入地の代官の資格で佐和山城に入ったもので、城を預かる城代としての入城であった。当時の三成の所領は美濃国内、安八郡神戸とその周辺にあったと推定されている。
文禄元年(1592年)からの文禄の役(朝鮮出兵)では渡海し、増田長盛や大谷吉継とともに漢城に駐留して朝鮮出兵の総奉行を務める。文禄2年(1593年)、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いに参加。その後、明軍の講和使・謝用梓、徐一貫を伴って肥前名護屋城に戻るなど、明との講和交渉に積極的役割を果たしている。しかし、秀吉と現地の連絡役という立場の行動は、豊臣家中で福島正則、黒田長政ら武断派の反発を招いた。
文禄3年(1594年)、9月3日に母・瑞岳院が死去、兄・正澄と親交が厚かった藤原惺窩や大村由己らが追悼の漢詩や文を送り、三成も佐和山城下に瑞岳寺を建立している。また、この年に島津氏・佐竹氏の領国を奉行として検地する。
文禄4年(1595年)、秀吉の命により、秀吉の甥・豊臣秀次を謀反の嫌疑により糾問する(秀次事件)。秀次の死後、その旧領のうち近江7万石が三成の代官地になる。また、同年に畿内と東国を結ぶ要衝として、軍事的にも政治的にも、重要な拠点である近江(滋賀県)佐和山19万4,000石の所領を秀吉から与えられ、正式に佐和山城主となった。それにより佐和山に城を築く大大名となった。
慶長元年(1596年)、佐和山領内に十三ヶ条掟書、九ヶ条掟書を出す。明の講和使節を接待。同年、京都奉行に任じられ、秀吉の命令でキリシタン弾圧を命じられている。ただし、三成はこのときに捕らえるキリシタンの数を極力減らしたり、秀吉の怒りを宥めて信徒たちが処刑されないように奔走したりするなどの情誼を見せたという(日本二十六聖人)。
慶長2年(1597年)、慶長の役が始まると国内で後方支援に活躍した。その一方で、この年に起きた蔚山城の戦いの際に在朝鮮の諸将によって戦線縮小が提案され、これに激怒した秀吉によって提案に参加した大名が譴責や所領の一部没収などの処分を受ける事件が起きた。この際、現地から状況を報告した軍目付は三成の縁戚である福原長堯らであり、処分を受けた黒田長政、蜂須賀家政らはこの処分を秀吉に三成・長堯が意見した結果ととらえ、彼らと三成が対立関係となるきっかけとなった。加藤清正は石田三成に帰国をしないことを秀吉に報告され、武断派との対立が深まったといわれている。
慶長3年(1598年)、秀吉は小早川秀秋の領地であった筑後国・筑前国に三成を加増移封しようとしたが、三成は辞退した。しかし、秀吉の直割地となった筑後国・筑前国の蔵入地の代官に任命されて名島城を与えられ事実上支配した。
慶長4年(1599年)に予定されていた朝鮮における大規模攻勢では、福島正則や増田長盛とともに出征軍の大将となることが決定していた。しかし、慶長3年(1598年)8月に秀吉が没したためこの計画は実現せず、かわって戦争の終結と出征軍の帰国業務に尽力した。小早川秀秋の越前への転封の話も消え、九州北部の支配から退くこととなった。
秀吉死後
秀吉の死後、豊臣家の家督は嫡男の豊臣秀頼が継ぐ。しかし朝鮮半島よりの撤兵が進められるなか、政権内部には三成らを中心とする文治派と、加藤清正・福島正則らを中心とする武断派が形成され対立を深めていた。慶長3年(1598年)8月、毛利輝元と三成ら四奉行は、五大老の中に自分達と意見を異なる者が出た場合、秀頼のために協力してこれにあたることを改めて誓う起請文を作成している。一方、徳川家康は同年10月から12月にかけて京極高次、細川幽斎ら諸大名を訪問し、また水面下で福島正則、黒田長政、蜂須賀家政ら武断派諸侯と婚姻関係を結ぼうとしていた。
翌慶長4年(1599年)初頭、家康による縁組計画が発覚する。これを文禄4年(1595年)8月に作られた「御掟」における大名間の私的婚姻の禁止条項に違反する行為であるとして、前田利家を中心とする諸大名から家康弾劾の動きが起こる。四大老五奉行による問責使が家康に送られる一方、家康も国許から兵を呼び寄せるなど対立は先鋭化するが、2月12日に家康が起請文を提出することなどにより一応の解決をみた。
同年閏3月3日に前田利家が病死すると、その直後に加藤清正・福島正則、黒田長政・細川忠興、浅野幸長らが、三成の大坂屋敷を襲撃する事件が起きる。三成はのちにこの事件の中心人物として、事件直前に家康より豊後国内に6万石を与えられていた細川忠興の名を挙げている。
この後、武断派と三成は伏見城内外で睨みあう状況となるが、仲裁に乗り出した家康により和談が成立。三成は隠居し、閏3月10日、佐和山城に帰城した。この事件の際、「三成が敵である家康に助けを求め、単身で家康の向島の屋敷に入り難を逃れた」という逸話があるが、これらの典拠となっている資料は明治期以降の『日本戦史・関原役』などで、江戸時代に成立した史料に、三成が家康屋敷に赴いたことを示すものはない。この三成失脚に至る事件は七将襲撃事件と呼ばれているが、事件の性格には様々な議論がある。
慶長4年(1599年)11月には家康暗殺計画への関与を疑われた前田利長が、父・利家から引き継いでいた大老の地位を事実上失い、浅野長政も奉行職を解かれ領国の甲斐国に蟄居となる。これによって五大老五奉行は四大老三奉行となり、以降、豊臣政権内部の主導権は家康が握る。
関ヶ原の戦い
慶長5年(1600年)6月16日、家康は陸奥国会津を領していた上杉景勝を討つために大坂を発つ(会津征伐)。入れ替わるように前田玄以、増田長盛、長束正家の三奉行の上坂要請を受けた毛利輝元が7月17日に到着(大坂入城は19日)。同時に三奉行連署からなる家康の罪状13か条を書き連ねた弾劾状(『内府ちがいの条々』)が諸大名に送られた。ここに関ヶ原の戦いの対立構造が成立する。
この西軍の結成に関して三成がどのような役割を果たしたのかについては、研究者によって評価が分かれる。従来の説は単独で決起した三成が諸大名を引き込んだとするものであるが、挙兵に到るまでの三成の詳細な動向は一次史料では不明であり、また三成を西軍結成の首謀者とする史料は江戸時代成立の二次史料が多い点が指摘されている。また、家康が会津征伐に向かう際に、三成に対して佐和山城を宿所として借りようとして拒絶されたとして、これを挙兵と関連づける考えもあるが、単に家康に会津征伐を再考させるためのものであった可能性が高い。
『常山紀談』には三成が挙兵にあたって、大谷吉継を味方に引き入れるため佐和山に招いたときの逸話が載せられている。ただし『常山紀談』は明和7年(1770年)成立の逸話集であり、史実である確証はない。
また上杉家の家老・直江兼続らと連携して事前に挙兵の計画を練っていたとする説があるが、これも江戸時代成立の逸話集などに登場する説であり、一次史料による裏付けはない。七月晦日付真田昌幸宛三成書状には「三成からの使者を昌幸の方から確かな警護を付けて、沼田越に会津へ送り届けて欲しい」(真田宝物館所蔵文書)と記されており、西軍決起後の七月晦日の段階においても、上杉家との確かな交信経路を持ち合わせていなかった点から、上杉側と三成の具体的な謀議や提携はなかったとする考察がある。
決起した西軍は7月18日、家康家臣・鳥居元忠の守る伏見城を包囲。8月1日に城は陥落する(伏見城の戦い)。8月に入って伊勢国に侵攻した西軍は伊賀上野城、安濃津城、松坂城などを落とすが東軍の西上の動きを知って美濃方面へと転進。こうして東西両軍は関ヶ原で相まみえることになる。
通説では当初はやや西軍優勢で進み、黒田長政、細川忠興、加藤嘉明ら数倍の敵を一手に引き受けたとされているが、小早川秀秋、脇坂安治らの裏切りによって西軍は総崩れとなったとされている。しかし、東西どちらの陣営につくか迷った秀秋の陣に家康が鉄砲を打ち込んだため意を決した秀秋が西軍に襲いかかったとする経緯は、江戸時代成立の二次史料に記されているものであり、合戦後すぐに作成された9月17日付の石川康通、彦坂元正による連署書状には秀秋が開戦直後に裏切ったと記されている。
戦いに敗れた三成は、伊吹山の東にある相川山を越えて春日村に逃れた。その後、春日村から新穂峠を迂回して姉川に出た三成は、曲谷を出て七廻り峠から草野谷に入った。そして、小谷山の谷口から高時川の上流に出て古橋に逃れた。しかし9月21日、家康の命令を受けて三成を捜索していた田中吉政の追捕隊に捕縛された。
一方、9月18日に東軍の攻撃を受けて三成の居城・佐和山城は落城し、三成の父・正継、兄・正澄を含む石田一族の多くは自刃した。9月22日、大津城に護送されて城の門前で生き曝しにされ、その後、家康と会見した。9月27日、大坂に護送され、9月28日には小西行長、安国寺恵瓊らとともに大坂・堺を罪人として引き回された。9月29日、京都に護送され、奥平信昌(京都所司代)の監視下に置かれた。
10月1日、家康の命により六条河原で斬首された。享年41。辞世は「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」。首は三条河原に晒された後、生前親交のあった春屋宗園、沢庵宗彭に引き取られ、京都大徳寺の三玄院に葬られた。
豊臣奉行としての三成
三成は秀吉直下の奉行としてさまざまな政策・実務に携わっている。三成自身の政治的影響力は主に各地に赴いての検地や、秀吉(豊臣政権)と地方大名との間の外交交渉、大名内部で起きた諸問題への介入などを通じて、秀吉の国内統一戦が始まって以降徐々に高まっていったものと考えられる。その影響力をうかがわせる発言がいくつか残っている。
- 毛利輝元:「彼仁、当時、肝心の人にて、なかなか申すに及ばず。大かた心得にて候(大いに気を使う)」
- 島津義弘:「江州佐和山の城主・石田治部少輔、太閤公の股肱の臣として、その勢威、比肩の人なし」
- 木食応其:「治少(治部少輔)、御奉行のその随一なる顔にて候つる。少しもそむけ候えば、たちまち身のさわりをなす仁にて候」
五奉行に限らず、地方大名とのさまざまな交渉を担当した豊臣秀長、富田一白、宮部継潤、小西行長、黒田孝高らは、単に秀吉の意思を伝達するだけではなく、相手の依頼に応じて便宜を図ることもあり、その結果秀吉の当初の決定に修正が加えられることがあった。 三成に関しては毛利家・島津家が主な交渉相手であり、両家との交渉過程で築かれた関係がのちの関ヶ原の戦いにおける連携に繋がることとなる。
ただし、政策の基本的部分は秀吉の意志によって決定され、また実務はほかの奉行衆との連携・分担によって進められており、政権内部において三成一人が突出した権力を持っていたわけではない。浅野長政は秀次事件で失脚するまで東国諸大名に対して三成を上回る大きな影響力を有し、朝廷や京周辺の寺社との交渉は主に前田玄以が務めていたように、三成の職権と影響力には限りがあった。
また、五奉行による連署書状の署名順は一部の例外を除き、前田玄以→浅野長政→増田長盛・三成→長束正家となっており、三成は五奉行内の序列においては3番手もしくは4番手であった。
秀吉の最晩年期になると慶長3年(1598年)8月5日の秀吉遺言書や、同時期に奉行衆と家康および他の大老との間で交わされた起請文の条項によって、奉行の政治的権限は五大老、なかでも家康の影響力を抑止する方向で強化されていく。これに対抗する家康と、現体制を保持しようとする奉行衆との対立関係が秀吉死後の政治抗争を招いたものと考えられる。
家紋
定紋は定かではなく、
逸話と人物像
石田三成には数多くの逸話が残されており、彼の人物像や評価形成に大きな影響を与えている。これらの多くは江戸時代以降に成立した軍記物や随筆などの二次史料に基づくものであり、史実とは異なる伝承も含まれている点には注意が必要である。特に江戸幕府成立後は、三成が徳川家康に敵対した立場であることから、奸臣的に描かれる例も多い。一方で、近代以降の実証史学の進展により、こうした評価の見直しも進められている。
人柄・信念
三杯の茶(三献茶)
- 近江国のある寺院に、鷹狩りの帰りにのどの渇きを覚えた秀吉が立ち寄り、寺小姓に茶を所望した際、寺小姓は最初に大きめの茶碗にぬるめの茶を、次に一杯目よりやや小さい茶碗にやや熱めの茶を、最後に小振りの茶碗に熱い茶を出した。まずぬるめの茶で喉の渇きを鎮めさせ、後の熱い茶を充分味わわせようとする寺小姓の細やかな心遣いに感服した秀吉は彼を家臣とした。それがのちの石田三成である、という逸話がある。これが俗に「三杯の茶(三献茶)」と呼ばれる逸話である。この寺院については、伊吹山の観音寺(滋賀県米原市)という説と伊香郡古橋村(滋賀県長浜市木之本町)の法華寺三珠院もしくは飯福寺とされている。前者は石田家の本拠であった石田村に近く三成も庇護を与えていたこと、後者は三成の母方の岩田家の本拠である杉野村に近く何よりも関ヶ原の合戦で敗れた三成が落ち延びた地であることから、いずれも三成と縁が深かったと考えられる。ただし、この逸話が載せられている史料が江戸時代のもの(正徳6年(1716年)成立の『武将感状記』など)であること、また三成の息子が記した寿聖院『霊牌日鑑』では三成が秀吉に仕えたのは18歳の時に姫路においてと記されていることなどから、後世の創作であるとする説がある。
季節外れの桃に対する献上の断り
- ある年の10月、毛利輝元から豊臣秀吉への贈り物として、季節外れの桃が届けられた。これを受け取った三成は、毛利家の重臣を呼び寄せてこう伝えた。「たしかに立派な桃ですが、今の時期には珍しいゆえに、もし体に合わず公(秀吉)が体調を崩されたら一大事です。それでは、毛利家の名誉にもかかわります。どうか季節にふさわしいものを改めて献上ください。」この判断に「もっともだ。こうした冷静な配慮こそが、三成が秀吉に信頼される理由だ」と評価する声がある一方、「秀吉の権勢を笠に着た高慢な振る舞いだ」と受け取る人もいたという(小早川能久『翁物語』)。
島左近との密議における「平穏」の重視
- 関ヶ原の戦いが近づく中、石田家の重臣・島左近は密議の場で三成に対し、「もし豊臣家のために立ち上がるつもりであったのなら、もっと早く決断すべきでした。今は好機を逃し、家康に味方する者も多い。この状況では、強引に動くよりも、敵対していた諸大名とも関係を修復して、時機をうかがうべきです」と進言した。 しかし三成は、「目先の成功よりも、戦の後にいかに世を平穏にするかが大切だ」としてこの意見を退けた。 その後、三成が席を外した際、家臣の樫原彦右衛門が左近に「あなたの意見がもっともだ。松永久秀や明智光秀は悪人ではあったが、決断力と行動力は人並み外れていた」と語った。 やがて家康は、左近の動きを探るため、同じ大和国出身の柳生宗矩を密かに使者として送り込む。宗矩と天下の行方について語る中で、左近はふとこの密議を思い出し、「今は松永や光秀のような決断力を持つ者もおらず、何も起こらないでしょう」と語ったという(『常山紀談』)。
増田長盛との密談と100万石を辞退した逸話
- 関ヶ原の戦いの直前、三成は増田長盛と密談した。三成は「五畿内の浪人を集めて兵力とし、家康に決戦を挑もう」と述べ、長盛は「いや、時節を待とう」と言った。すると三成は苦笑いし、「生前の太閤殿下は貴殿と拙者に100万石を与えると言われたが、我々は分不相応ですと断った。思えばあのとき、100万石を受けていれば今になって兵力の心配などする必要もないのに」と述べて長盛のもとを去ったという(多賀谷英珍『遺老物語』)。
教養
禅と仏教的信仰に基づく寺院建立と寄進
- 三成は、豊臣政権下の武将の中でも特に禅の教えに深い理解を持っていた人物であり、山城国大徳寺(臨済宗大徳寺派)の高僧・円鑑国師(春屋宗園)のもとをたびたび訪ねて参禅し、その教えを受けていた。こうした深い信仰のあらわれとして、天正14年(1586年)、三成は浅野幸長・森忠政とともに浄財を喜捨し、大徳寺境内に塔頭「三玄院」を建立したとされる。三玄院の表門には、三成邸宅の門が移築されたと伝わっており、三成にとって三玄院がいかに重要な場所であったかがうかがえる。現在の三玄院は明治時代に再建されたもので、当時の建物は現存していないが、三成の禅への傾倒を今に伝える貴重な遺構となっている。
- また、三成は文禄3年(1594年)に母の葬儀を三玄院で営み、さらに慶長4年(1599年)には、母の菩提を弔うために佐和山に「瑞岳寺」を建立し、円鑑国師を迎えて開山とした。円鑑国師は弟子である董甫紹仲・江月宗玩を伴って瑞岳寺に赴き、翌年まで同寺に滞在している。江月は泉州堺の茶人・津田宗及の子であり、宗及と親しかった三成とは自然と親交を結んでいたとされる。三成は、所蔵していた豊臣秀吉の肖像や母の肖像に、円鑑国師による賛を請うなど、禅の師として深く信頼を寄せていた。
- 三成の刑死の後、円鑑国師はその師檀関係に基づき、三成の遺体を大徳寺三玄院の境内に埋葬し、自ら墓碑を建てて香華を手向け、懇ろに弔った。さらに石田正澄・主水正・右近ら石田家に関わる人々のためにも塔影を建立したとされる。
- また、三成が深く尊敬していた禅僧に、妙心寺の高僧・伯蒲恵稜がいる。伯蒲は当時、学徳に優れた人物として知られており、三成は父・石田正継の菩提を弔うため、伯蒲に依頼して妙心寺境内に「壽聖院」を建立。慶長4年(1599年)に堂舎が竣工した。今では僅かに昔の面影をどどめるにすぎないが、壽聖院には、三成が寄進したと伝わる狩野永徳筆の屏風や、伯蒲が文禄3年(1594年)に賛を記した石田正継の寿像が今も伝わっている。関ヶ原の戦後、三成の長男・石田重家が大坂城を脱出し、壽聖院の伯蒲を頼って身を寄せたのも、三成と伯蒲の深い関係性を物語っている。
- 高野山は当時、仏教の聖地として非常に大きな勢力を有しており、大名たちをも凌ぐ影響力を持っていた。豊臣秀吉は当初、高野山が自らの命に従わないことに憤り、攻撃を検討していたとされる。しかし、三成は仏を敬い、平和を重んじる立場からこれを憂慮し、高野山の木食上人と交渉を行った。その上で秀吉に対して巧みにとりなしを行い、高野山攻撃を回避させたと伝わっている。これを契機に、三成と木食上人の間には親しい関係が築かれ、三成は母の菩提を弔うために高野山奥の院に一切経(仏教経典の全集)を寄進し、それを入れる経蔵を建立した。文禄5年(1596年)正月にこの経蔵は火災に見舞われたが、三成の尽力により速やかに再建され、朝鮮出兵の際に持ち帰った高麗版の大蔵経を納めたという。また、三成は自らの死後の安寧を祈念し、奥の院の経蔵近くに自らの墓所も設けていたと伝わっている。
和歌
- 九州征伐の途中、豊臣秀吉ら一行は広島県の厳島神社を参拝し、境内の水精寺で和歌の会を開いた。この際、三成は「春ごとの頃しもたえぬ山桜 よも霧島の心ちこそすれ」と詠んだとされる(『芸藩通志』)。三成が詠んだこの和歌は、春に咲く山桜の変わらぬ美しさを霧島の神秘的な情景になぞらえたものと解釈されることがある。
茶の湯
- 天正15年(1587年)正月、堺にいた神屋宗湛のもとへ、大坂の津田宗及から急報が届き、豊臣秀吉が大坂城内で大茶の湯会を催し、その席に宗湛を招くことになったと伝えられた。宗湛は直ちに大坂へ向かい、宗及が滞在していた三成の邸を訪れた。三成は宗湛を奥の間に招いてもてなし、翌日、宗湛を案内して大坂城へ赴き、三成一人で茶の湯の飾り付けを行った(『宗湛日記』)。
- 慶長3年(1598年)11月23日、三成は博多の倉本の書院で茶会を催し、神屋宗湛や、九州に下向していた毛利秀元らを招いた。この際の茶道具は、釜が「右小細く端落」、蓋が青銅、茶碗が白の高麗もの、水指が「唐の面桶引切」であった。三成は二度、茶を点てた後、夜咄(よばなし)を行ったとされる(『宗湛日記』)。
源平盛衰記
- 慶長2年(1597年)、三成は神竜院の僧・梵舜に『源平盛衰記』の書写を依頼しており、この書物が三成の愛読書であったと考えられている。関ヶ原の戦いに敗れ、伊吹山の山中へと落ち延びた際、三成の脳裏には、石橋山の戦いに敗れて朽木の中に身を潜めた源頼朝の姿が重なっていたのではないかとされる。『源平盛衰記』には、敗戦後に頼朝が家臣たちに「戦とは勝つこともあれば負けることもある。一度の敗北で命を捨てるのではなく、生き延びて大義を成し遂げることこそ兵法にかなう」と語ったと記されている。三成が敗走してなお再起を目指した姿勢は、この頼朝の言葉から深い影響を受けていた可能性がある。また、捕縛後に本多正純が「自害もせずに捕らえられるとは」と暗に非難した際、三成が「汝は軍略を露ほども知らぬ。大将の道を語っても耳には入らぬであろう」と厳しく言い返したという逸話も、この背景と結びつけて語られている。
対人関係・信頼関係
大谷吉継との交友関係と関ヶ原前の密談
- 三成と大谷吉継の深い友情を示す逸話として、次のような話が広く知られている。あるとき、豊臣秀吉が開いた茶会において、茶碗を一口ずつ飲み回す形式で茶がふるまわれた。らい病を患っていた吉継は、顔から落ちた膿が茶に混じってしまったため、口にせずにそのまま茶碗を回した。以降の諸大名は誰も茶に口をつけずに回していったが、三成だけはためらわずに茶を飲み干したという。この出来事をきっかけに、二人の間には強い信頼関係が結ばれたとされる。しかしこの逸話は、典拠が明確でないことに注意を要する。歴史学者の本郷和人によれば、この話が江戸時代の記録にさかのぼることは確認されておらず、明治44年(1911年)にジャーナリスト福本日南が記した『英雄論』では、三成ではなく秀吉が茶を飲んだという異なる形で紹介されている。本郷は「これがぼくが知っているものとしては一番古い」としており、逸話の成立時期や信憑性については議論の余地がある。
- また、吉継が徳川家康の会津征伐に従軍しようとしていた慶長5年(1600年)7月2日、三成は吉継を佐和山城に招いて密談を行った。三成は「上杉景勝が家康に対して挙兵した以上、豊臣家のためにこれを支援すべきである」として、打倒家康に向けた決起の意思を語った。このとき吉継はすでに病を患い、視力を失いかけていた。彼は家康と景勝の間を調停する可能性も考慮し、三成に対し挙兵の成功が困難であることや、戦いの得失を冷静に説き、翻意を促した。しかし三成の決意は固く、吉継に対しても豊臣家のために力を貸してほしいと強く求めた。吉継は佐和山に数日間滞在しながら深く熟慮したが、容易に結論を出すことはできなかった。7日に佐和山を去って垂井へ向かい、さらに家臣の平塚為広を三成のもとに遣わして再度の忠告を試みたものの、三成の意志は揺るがなかった。吉継は旧友を見捨てて東軍に与することを友情の上から忍びがたく思い悩み、ついに意を決して11日に佐和山へ戻り、三成と行動を共にする覚悟を固めたという。三成は吉継の決断を大いに喜び、それ以降、吉継は三成の主要な相談相手となり、挙兵に向けた画策が本格化していったとされる(『常山紀談』)。
上杉景勝・直江兼続との関係
- 三成は、豊臣政権初期より上杉家と深い関係を築いていた。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が滅亡した直後、三成は秀吉の命を受けて、上杉家の重臣である直江兼続と狩野秀治に書状を送り、秀吉との提携を求めた。これに応じて上杉景勝は大石綱元を派遣し、三成を通じて秀吉に戦勝の祝意を伝え、和睦の意を表した。兼続はこのとき、三成の斡旋に対する謝礼として馬一匹と白布五十端を贈っている。その後も三成は秀吉と上杉家との間の調整役を務め、天正14年(1586年)に景勝が上洛する際には、三成自らが金沢まで出迎えている。このような関係を通じて、三成と上杉家との間には早くから親密な信頼関係が築かれたとされ、関ヶ原の戦いにおいても、三成が上杉景勝・直江兼続と結んで挙兵した背景には、こうした長年の絆があったと考えられている。
島津義久・島津義弘との関係
- 三成は島津家との外交・調整役を務め、深い信頼関係を築いていた。天正15年(1587年)の九州平定後、島津義久は豊臣秀吉の命により上京の途についた。その道中、義久は筑前国・筥崎で催された秀吉の茶会に招かれ、ついで赤間ヶ関(現在の下関市)に到着した。このとき、三成はすでに赤間ヶ関城に滞在しており、義久の到着に際して出迎えを行い、また人質として薩摩から海路で先に到着していた義久の娘・亀寿と義久とを引き合わせた。義久の一行は高野山の木食上人を案内役とし、赤間ヶ関から瀬戸内海を舟で進み、7月10日に和泉国・堺へ到着した。堺の代官であった三成は、多くの小船を準備して義久の乗船を出迎え、丁重な接待にあたった。この上京を契機として、三成と島津氏の関係は急速に深まり、三成は島津家との間で外交・調整の役割を担っていくこととなる。天正16年(1588年)、三成のとりなしによって義久は大坂城で秀吉に謁見し、1万石の在京料を与えられた。滞京中、三成は細川幽斎とともに義久の支援役を務め、その帰国にも尽力した。幽斎が新納忠元に宛てた書簡では、「万事三成と相談しつつ、しかるべく取り計らっている」と記されており、三成が重要な調整役であったことがうかがえる。
- また同年6月、義久の弟・島津義弘が上坂し秀吉に謁見した際にも、三成は義弘とたびたび会合を重ね、必要な調整にあたった。最終的に義久の帰国が許可され、質子であった亀寿の帰国も特例として認められた。当時の状況下では異例とも言える恩恵であり、三成の斡旋による功績は大きいとされる。この際、三成の父・石田正継も堺において代官を務めており、島津一行を手厚くもてなしたという。義久はこの恩義に報いるため、三成と幽斎に対し起請文を提出し、豊臣家への忠誠を誓うとともに、両名への感謝と今後の関係維持を強く願った。この文書には、「逆心の輩が現れても決して与せず」「不調法あらば幾度でも御指南を仰ぎたい」など、三成への深い信頼が表現されている。
- その後も島津氏と三成の関係は良好に保たれ、慶長3年(1598年)には義久・三成の連署で、薩摩から大坂への米の輸送・販売や、台所方の物資調達・経理処理、領地の免目録の作成など、実務面における指示書が発給されている。これにより、三成は島津家の藩政においても重要な助言者・調整役として信頼を得ていたことが窺える。
他の武将たちとの交友
- 三成は自身の書状で特に親しかった武将として小西行長と寺沢広高を挙げている。また、その他の史料からは、真田信之や織田秀信、津軽為信、斎村政広と親密な交際を持っていたことが確認できる。
- 豊臣政権下において、三成は真田信之との間に特に親密な交友を築いていた。三成は真田家の取次(政権と大名の仲介役)を務めており、その関係性は他の大名たちにも広く知られていたとされる。「真田家文書」には、三成から信之に宛てた書状が14通現存しており、両者の密接なやり取りがうかがえる。
是斎重鑑・海北友松との交友
- 慶長3年(1598年)、三成は小早川秀秋の旧領の代官として九州へ下向する際に、文人の是斎重鑑や画家の海北友松らを伴い、文化的な親交を深めながら旅を続けた。旅の途中である6月3日には、厳島神社に参詣し、平家納経を拝観。平清盛の自筆と伝わる筆跡に感銘を受けたという記録が残っている。さらに6月27日には九州の太宰府天満宮を訪れ、荒廃していた社殿の再建に尽力。社司の大鳥居信寛に命じて、社務所である安楽寺をはじめ、堂舎や回廊などの整備を行わせたとされる(是斎重鑑『九州下向記』)。
政治・実務的手腕
九州征伐における兵糧・弾薬の補給管理
- 天正15年(1587年)の九州征伐では、豊臣秀吉の本隊約10万、豊臣秀長の別動隊約15万、総勢25万の大軍が動員されたが、兵糧や弾薬の補給が円滑に行われたことは、当時の戦史上極めて異例のことであった。この補給を担当したのが三成であり、その優れた才覚が存分に発揮されたとされる。
博多の町の再興
- 天正15年(1587年)の九州平定ののち、かつて貿易港として栄えていた博多の町は、大友氏と龍造寺氏の戦によって兵火にかかり、荒廃していた。これを憂慮した豊臣秀吉は博多の再興を命じ(『甫庵太閤記』)、三成をはじめ長束正家・小西行長・滝川三郎兵衛・山崎志摩守らを復興奉行に任じた。奉行たちは博多の町域を十町四方に区画し、碁盤目状に街路を整備して町割を行った。 さらに、かつて博多に存在した問屋や座などの既得権益を一切廃止し、誰もが自由に商売できる「自由都市」とする方針を打ち出した。また、地子(地代)や諸役(税)を免除し、借金帳消し令(徳政令)の適用も除外するなど、市民に有利な特例を設けて住民の還住を促した。この「徳政令の適用除外」は、一見すると救済措置を排除するように見えるが、むしろ博多の商人にとっては安定した商取引が保証される重要な方針であった。将来的な帳消しリスクを排除することで、商人たちの経済的信頼を取り戻し、町の復興と活性化を後押ししたと考えられている。加えて、武士が町内に居住することを禁じ、商人・職人による町人中心の自治都市としての復興を目指した。これらの政策により、商人たちは徐々に博多に戻り、町は再び活気を取り戻したとされる。
忍城水攻めと実際の指揮構造
- 小田原征伐の際、三成は忍城攻略に参加する。『関八州古戦録』(1726年成立)等の二次史料には、忍城が要害にあり、城方の兵糧の備蓄も十分であることを理由に、三成が水攻めを発案し堤防を築くが、これが豪雨による増水によって決壊したため作戦が失敗に終わったと記されている。これは三成の戦下手の根拠とされる逸話である。しかし天正18年7月3日付浅野長政宛秀吉朱印状には秀吉自身が水攻めを指示したことが明記されており、また作戦実行にあたっては浅野長政、木村重茲らの指示を仰ぐなど、三成は秀吉が立案した作戦の下、現地での作業を指揮する立場でしかなかったようである。
人質政策と三成の立場
- 関ヶ原の戦いの際、会津征伐に従軍していた諸大名の妻子を人質に取ろうとしたが、細川忠興の妻・玉子に自害され、加藤清正、黒田長政らの一部大名妻子の逃亡を許すなど策は不完全なものとなった。また、この処置が結果的に東軍諸大名の敵対心を煽ったとする評価もある。しかし大名妻子に対する人質策は秀吉生存時の天正年間後期より政権の政策として用意されてきたものであって、三成個人の発案ではない。また三成は慶長5年9月12日付増田長盛宛三成書状(『愛知県史資料編13』1019号文書)において大坂における人質の扱いが寛大であることに不満を漏らすとともに、人質を安芸国宮島に移すことを提案しており、人質の処遇について一方的に命令できる立場ではなかったようである。
最期と伝承
古橋村での潜伏と与次郎太夫の義挙
- 関ヶ原の戦いで敗走した三成は、自身の領地である近江国の古橋村に身を潜めた。初めは三珠院を頼ったが、そのとき住職の善説より「何を所望か」と問われて「家康の首が欲しい」と答え、善説をあきれかつ恐れさせたとされる。その後、与次郎太夫という百姓の招きで、山中の岩窟に身を隠した。与次郎はこのとき徳川軍による咎めの責任を一身に引き受けるために妻を離縁し、刑死を覚悟で三成を介抱した。三成はこの義侠心に感じ入り、与次郎に咎めが及ばないよう、与次郎を説得して自分の居場所を徳川軍へ告げさせた。徳川軍を代表して三成の捜索にあたっていた田中吉政は、近辺の村々に対し、三成を生け捕りにした場合にはその村の年貢を永久に免除する、生け捕りにせず殺した場合にはその者に賞金百両を与える、逆に三成をかくまった場合には当事者のみならずその親族および村人全員にいたるまで処刑すると触れを出していたが、最終的には与次郎が三成の説得に従って自首したため、村は虐殺を免れている。捕縛された際の三成は、きこりのふりをして身にはぼろをまとい、兵糧米を少し持ち、破れ笠で顔を隠していたが、田中の兵でかつて三成の顔を知っている者がおり看破された(『田中系図』)。
- このとき、与次郎が死を覚悟で三成をかくまったのは、かつて古橋村が飢饉に襲われた際、三成が村人たちを救うために米百石を分け与えたことがあり、与次郎はそのことに深く恩義を感じていたためとされる。
- しかし他説では、三成が村人達に対し、「私がこのように逃れてきたのは、再び家康と一戦を交え、天下を統一する所存であるからだ。天下統一の暁には、古橋から湖(琵琶湖)までの間を大きな平野となし、道は全部石畳にする」と言い、村人達はこの言葉に惹かれて三成をかくまった。しかし、隣村の出身で与次郎太夫の養子であった者が裏切って徳川軍に密告したため三成は捕らえられたとする。これ以降、古橋村では他村から養子を取らない慣習ができたという。
福島正則らに対する毅然とした応答
- 三成は関ヶ原の戦いの数日後に捕縛されて大津城でさらされた。このとき、福島正則が馬上から「汝は無益の乱を起こして、いまのその有様は何事であるか」と大声で叱咤した。三成は毅然として「武運拙くして汝を生捕ってこのようにすることができなかったのを残念に思う」と言い放った(『武功雑記』、寛文年間成立)。小早川秀秋は「亡き太閤を裏切って恥ずかしくないのか」と罵り、黒田長政に同情させられると涙を流した。
干し柿を断った逸話と「命を大切にする」発言
- 三成が京都の町を引廻されている最中に水が飲みたくなったので、警護の者に伝えたところ、水がなかったので干し柿を差出された。三成は「痰の毒であるから食べない」と言って断った。「間もなく首を刎ねられる人が毒を断つのはおかしい」と笑われたが、三成は「そなた達小物には分からないだろうが、大義を思う者は、首をはねられる瞬間まで命を大事にするものだ、それは何とかして本望を達したいと思うから」であると答えた。(『明良洪範』享保以降成立)。なお、横浜一庵から柿100個が送られた際の礼状に「拙者好物御存知候(私の好物をよくご存知ですね)」と書いていることや、ほかにも三成への柿の贈答が記録されたことから、三成の好物が柿だったことは広く世間に知られており、柿の逸話とも関連がある可能性がある
家康との面会と処刑直前の態度
- 家康は関ヶ原の戦いで敗れて捕縛された三成に面会した際、「このように戦に敗れることは、古今よくあることで少しも恥ではない」といった。三成が「天運によってこのようになったのだ。早々に首を刎ねよ」と応えると家康も「三成はさすがに大将の器量である。平宗盛などとは大いに異なる」と嘆じた。また家康は処刑前の三成、小西行長、安国寺恵瓊の3人が破れた衣服ままであることを聞き、「将たるものに恥辱を与える行為は自分の恥である。」として小袖を送り届けた。三成は小袖を見て「誰からのものか」と聞き、「江戸の上様(家康)からだ」と言われると、「それは誰だ」と聞き返した。「徳川殿だ」と言われると「なぜ徳川殿を尊ぶ必要があるのか」と礼もいわずに嘲笑った(『常山紀談』)。
板坂卜斎による佐和山城の記録
- 家康に従軍した板坂卜斎は陥落した佐和山城に金銀が少しもなく、三成はほとんど蓄えを持っていなかったと記している(『慶長年中卜斎記』、寛永年間成立)。
伝承と実証の検証
黒田孝高との囲碁逸話の検証
- 『黒田家譜』(1688年成立)によると文禄の役のとき、石田三成・増田長盛・大谷吉継の三名が軍議のため黒田孝高と浅野長吉(長政)を訪ねたが、両名は囲碁に興じて三奉行と速やかに対面しようとしなかった。これを恨んだ三成が秀吉に讒言したため朝鮮より帰国した孝高は秀吉の怒りを買い疎んじられるようになった、というものである。しかし、文禄2年8月に秀吉が黒田長政に送った朱印状によれば、孝高が成敗直前にいたるほどの怒りを買ったことは事実であるものの、原因は讒言ではなく秀吉の許可を得ずに帰国した孝高自身にあったことが判明している。
加藤清正に関する「地震加藤」説の再検証
- 文禄の役出陣中に三成らの讒言によって帰国蟄居を命じられた加藤清正が、慶長元年(1596年)閏7月に起きた慶長伏見地震の際、伏見城の秀吉のもとにいち早く駆け付け、これに感激した秀吉により処罰を解かれたとする、いわゆる「地震加藤」の逸話は、『清正記』『清正高麗陣覚書』といった江戸時代成立の清正記系諸本を出典としており、清正自身の記した書状を含め当時の一次史料にこれを裏付けるものはない。清正が地震後の7月15日に発給した書状に伏見の清正邸が建築中であったことと、京から胡麻を取り寄せるようにとの指示が記されていることから、地震発生時に清正は京にも伏見にもいなかったと考えられる。
蔚山城の戦いと小早川秀秋に関する伝承
- 慶長3年(1598年)に行われた蔚山城の戦いでの小早川秀秋の行動が軽挙であるとして三成が秀吉に讒言した。そのため秀秋は越前国への転封を命じられるも徳川家康のとりなしによって免れたとする説がある。ただし出典は寛文12年(1672年)成立の『朝鮮物語』である。実際に小早川勢を率いて蔚山の戦いに参加したのは秀秋ではなく秀秋家臣の山口宗永であったうえに、越前転封を実現していることから史実とは考えられない。
三成と淀殿・高台院を巡る諸説の検証
- 一般的に広まっている誤解に、三成は旧主(浅井氏)の姫である淀殿を崇拝していたというものがある。これは両者が近江出身ということからイメージされたものと推測されるが、三成の石田家は近江の土豪であり、京極氏に代々仕官していた国人である。間接して、浅井氏にも仕えていた(浅井氏が京極氏を保護していた)ことになるが、基本的に当時の浅井氏と京極氏は敵対関係にあったため(浅井氏は、京極氏への下剋上で当時、台頭していた)、淀殿は「仇敵の娘」ともいえる。
- また、豊臣秀頼が豊臣秀吉の実子ではなく三成が淀殿と密通して生ませた子であるという説がある。淀殿不行跡の史料的根拠である『萩藩閥閲録』において、その風聞があったのは秀吉の死後で、かつ相手も大野治長と記載があることおよびこの話の出典が江戸中期以降ということ、秀頼は文禄2年8月3日(1593年8月29日)生まれであり、前年の文禄元年6月から朝鮮半島に赴いていたことから三成が秀頼の父親であるとは考えにくい。
- その一方で白川亨は、三成が秀吉の正室である高台院と親密であり、逆に秀頼の母として政治に介入する淀殿とその側近を嫌っていたとする、それまでの通説とは正反対の説を唱えている。その論拠として白川は以下のことなどを挙げている(詳しくは高台院を参照)。
- 三成の三女・辰姫は高台院の養女となっている(『杉山家由緒書』『岡家由緒書』)。
- 側近の東殿は大谷吉継の母である
- 小西行長の母ワクサ(洗礼名:マグダレーナ)は(バテレン追放令が出されるまで)北政所の侍女であった。
- 三成の家老島左近の娘ジョアンナ(小野木重勝の妻)も高台院に仕えていた。
- 高台院の側近の筆頭である孝蔵主は三成の縁戚で、関ヶ原でも西軍のために大津城の開城交渉を行っている。
- 淀殿の周辺に三成ら西軍派の縁者がいない
- 西軍寄りとみられる行動を取っていて三成が加藤清正ら七将に襲撃された際、家康に三成の保護を依頼している(『言経卿記』)。
- 甥である木下家の兄弟(小早川秀秋の兄弟)の多くが西軍として参加し領地を没収されている
- 関ヶ原の戦い後、急遽宮中に逃げ込んでいる(『言経卿記』)。(このとき、裸足だったと『梵舜日記』(『舜旧記』)に記されており、非常に狼狽していたことが確認できる)
- 東軍諸将との関係が薄く、側近に東軍関係者が全くいない
- 『梵舜日記』に高台院の大坂退去から関ヶ原の戦いの数年後まで高台院と正則らが面会したという記録がない。
肖像画
少なくとも3種類から4種類程度確認されているが、ここでは特に、三成自身(と伝えられる)の頭蓋骨から復顔した肖像画を取り上げる。
関ヶ原の戦いから約300余年を経た明治40年(1907年)、時事新報社と実業家・朝吹英二の呼びかけで、東京帝国大学の渡辺世祐が三成の伝記執筆のために、大徳寺三玄院にある三成のものと思しき墓を発掘した。このとき発見されたのは頭蓋骨や大腿骨、上腕骨など一体分の骨が揃っていた。京都帝国大学解剖学教室の足立文太郎が遺骨を鑑定調査し、1943年に清野謙次が調査を引き継ぎ、損傷が激しい頭蓋骨を丹念に接合・復元し、遺骨の正確な記録・写真・計測表・透視図を作成し鑑定文を執筆した。調査の結果は「優男の骨格・頭形は木槌型・反っ歯・没年41歳相当」で、このとき頭蓋骨の石膏模型が作られた。なお、三成の遺骨は当初の場所と位置を変えて、再び三玄院に埋葬された。
下って昭和51年(1976年)、末裔の一人である石田多加幸(写真家)からの依頼を受け、東京科学警察研究所元主任技官・長安周一が先の鑑定調査を元に石膏復顔を行った。さらにそれを元に関西医科大学の石田哲郎の指導の下、昭和55年(1980年)3月、日本画家・前田幹雄の手によって石膏の復顔肖像画が制作された。この肖像画は4幅制作され、現在、大阪城天守閣、長浜城歴史博物館、大徳寺三玄院、石田家に所蔵されている。 同時に身長の推測も行い、156cmと試算された。小柄であるとされていた石田三成であるが、当時の男子の平均身長は160cm程度であり、骨格から考えると取り立てて小柄であったとは言いにくい。ちなみに家康は159cmと計算されている。
佩刀
前田利家の死後、加藤清正・福島正則らが三成を襲撃するという事件が起こり、家康の仲裁によって三成は奉行を辞し佐和山城に蟄居することになった(石田三成襲撃事件)。三成が佐和山城への護送役を務めた結城秀康に「無銘正宗」を贈ると、秀康はこれを喜び、「石田正宗」と名付けて終生大切にしたという。この「正宗」は三成が秀吉から拝領したものといわれるが、江戸時代の享保期に出版された書物『刀剣名物帳』では、毛利若狭守が所持していたものを宇喜多秀家が買い取り、三成に贈ったと記されている。
関ヶ原の戦いで田中吉政配下の田中吉忠(田中伝左衛門)と沢田少左衛門に捕縛されたとき、無銘の打刀と短刀を差していた。捕らえられる直前、三成は名誉ある死である切腹を田中伝左衛門に願ったが、伝左衛門はそれを無視して捕縛、三成は士の道に背くと憤って伝左衛門を呪っている(『石卵余史』)。打刀(備後貝三原正真作)の方は徳川家に没収された後、家康からの恩賞として吉政を介して捕縛の実行者である伝左衛門の手に渡り、のちに「さゝのつゆ」の号を与えられた(『甲子夜話』巻之九十一)。一方、三成は吉政父子には非常に手厚く扱われ、その礼として自ら愛用する短刀の方を贈呈した。このときに贈ったのは名物「切刃貞宗」だという伝説が有名だが、『寛政重修諸家譜』によると実際は手掻包永の短刀で、吉政本人ではなく、長男の田中吉次に手渡したらしい。
系譜
兄弟
- 石田弥治郎 - 一説に三成の長兄で石田正継の長男といわれる。
- 石田正澄
- 石田三成
- 女(福原長堯室)
子女
3男3女もしくは2男5女がいたとされる。三成本人は家康の命により死罪となったものの、子孫には比較的寛容であったことは特徴的である。
- 長男:石田重家 - 関ヶ原の戦い後、徳川家康に助命され出家。父・三成と親交が深かった春屋宗園の弟子となり、宗亨と名乗って104歳(または103歳)の天寿を全うした。宗亨に帰依した弟子に祖心尼がおり、祖心尼は宗亨の甥にあたる岡吉右衛門に娘おたあを嫁がせている(以下、次女・小石殿の項参照)。また、重家の子直重は松平忠直の庇護をうけ、国替えで越後高田藩に入封した際に随伴。妙高市(妙高高原一)の新田開発を命ぜられ、以降、当地に定住した。
また重家の直系子孫を名乗る石田秀雄によると3代目の直重(重家の子)の代に越後高田松平家に仕官したがその次の代からは庄屋になり現在まで男系で繋いでいるというが、それを示す史料は戦争で燃えたという。
- 次男:石田重成 - 関ヶ原の戦い後、津軽信建の助力で畿内を脱出。若狭国小浜に逃れた後、津軽氏にかくまわれ、杉山源吾を名乗る。のちに弘前藩家老職となり、子孫は津軽家臣として数家に分かれた。
- 長女:某 - 名は定かではないが、生前は吹殿と呼ばれていたという説がある。石田家臣の山田勝重(隼人正)に嫁ぐ。山田勝重の叔母は家康の側室・茶阿局で、その縁から石田家没落後は妻(三成の娘)を連れ松平忠輝に2万5,000石にて仕えた。忠輝改易後、山田勝重は妻の妹・辰姫の縁で津軽藩から捨扶持として150石を賜り、草山と号して江戸で余生を送った。次男・富岡武兵衛、三男・山田彦兵衛が津軽藩に登用され、子孫は津軽藩士となり城代や側用人などを務めた。
- 次女:小石殿 - 蒲生家の家臣岡重政(岡半兵衛)室。重政が蒲生家の御家騒動に関与し(藩主・蒲生忠郷の母・振姫(家康の三女)の勘気に触れ)、幕府により江戸に呼び出されて切腹処分になると会津を離れる。のちに若狭国へ移り住み、小浜で没したと伝わる。子の岡吉右衛門の娘は徳川家光の側室・お振の方(自証院)(三成の曾孫にあたる)となり、家光の長女・千代姫を産んだ。尾張徳川家に嫁いだ千代姫の血筋は第7代藩主・徳川宗春まで続き、さらに女系(千代姫の孫徳川吉通の娘三千君)を通じ二条家、九条家を経て貞明皇后、そして現在の皇室などに三成の血を伝えている(系譜 石田三成 - 小石殿 - 岡吉右衛門 - 自証院 - 霊仙院(千代姫) - 徳川綱誠 - 徳川吉通 - 三千君 - 二条宗基 - 二条治孝 - 九条尚忠 - 九条道孝 - 貞明皇后 - 昭和天皇)。また、吉右衛門の子孫は千代姫の縁で尾張藩士となった。
- 三女:辰姫 - 高台院養女。弘前藩第2代藩主・津軽信枚の正室、のちに満天姫(家康養女)降嫁により側室に降格したが、産んだ子は第3代藩主(津軽信義)となった。さらに女系を通じ雅楽頭酒井家などに三成の血を伝えている。
- 三男:佐吉 - 佐和山城が東軍に包囲された際、徳川家の旧臣で三成の兄・石田正澄に仕えていた津田清幽が開城交渉を行っていた最中に、豊臣家家臣で援軍に来ていた長谷川守知が裏切り小早川秀秋、田中吉政の兵を引き入れたため、正澄や父の正継らが自刃する悲劇が起こった。違約に怒った清幽が家康に迫って生き残った佐吉らの助命を承知させた。佐吉は父・三成と親交の深かった木食応其の弟子となって出家し、清幽の忠義への感謝から法名を清幽と名乗った。
上記の3男3女は全て正室の皎月院の所生だが、このほかに側室との間に数人の庶子がいたとの伝承がその子孫に伝わっている。いずれも史実としての確認はできない。写真家・石田多加幸の家には庄屋となった備中石田氏の祖である、三成の次男八郎(三成の三男は佐吉ではなく八郎とする説も)の子孫という伝承がある(杉山重成の家に伝わる系図に該当する子孫はないため、重家と重成の間に生まれた側室所生の次男の子孫と推測することもできる)。『石田三成の末裔として育った』(近代文藝社)を書いた澁谷理恵子の家には、三成の末子の姫が、大坂の陣後、乳母に抱かれて越後高田へ落ち延びたのが祖先だとの口伝が残っている。
家臣
偏諱を与えた人物
- 小出三尹(和泉陶器藩初代藩主)
- 相馬三胤(のちの相馬利胤、陸奥相馬中村藩初代藩主)
- 松野三正(のちの松野重元。)
- 多賀谷三経(常陸下妻城主多賀谷重経の子。のち結城秀康の家臣)
関連作品
- 小説
- 『石田三成』、続編『篝火』(尾崎士郎)
- 『関ヶ原』(司馬遼太郎)
- 『巨いなる企て』(堺屋太一)
- 『石田三成 「義」に生きた智将の生涯』(徳永真一郎)
- 『石田三成』(童門冬二)
- 『乱世光芒 小説・石田三成』(嶋津義忠)
- 『悲将 石田三成』(加野厚志)
- 『石田三成 ソクチョンサムスン』(荒山徹)
- 『石田三成』(江宮隆之)
- 『捕縛 石田三成の無念と執念』(加藤嶺夫)
- 『三成の不思議なる条々』(岩井三四二)
- 『決戦!関ヶ原 石田三成編 孤狼なり』(葉室麟)
- 『石田三成の青春』(松本匡代)
- 『治部の礎』(吉川永青)
- 『石田三成 家康を驚愕させた西軍の組織者』(相川司)
- 『実伝 石田三成』(火坂雅志編)
- 『佐和山軍記』(舘明)
- 『八本目の槍』(今村翔吾)
- 『四杯目の茶』(『戦国武将伝 西日本編』収録、今村翔吾)
- 『五葉のまつり』(2024年、今村翔吾)
- 漫画
- 『ミツナリズム』(鈴木コイチ)
- 『三成さんは京都を許さない』(さかなこうじ)
- 『石田三成の妻は大変』(重野なおき)
- テレビアニメ
- 『学園BASARA』(2009年、カプコン、声:関智一)
- 『戦国BASARA』(劇場版、Judge End)(2011年、カプコン、声:関智一)
- 『戦国無双』(2015年、コーエーテクモゲームス、声:竹本英史)
- 『妖怪軍師ウィスベェ(妖怪ウォッチのコーナー)』(日野晃博)
- ゲーム
- 『戦国無双シリーズ』(2、3、4、〜真田丸〜)(2006年、コーエーテクモゲームス、声:竹本英史)- 『戦国無双3』のキャラクター人気投票で1位を獲得し、『戦国無双』10周年記念として実施された『戦国無双4』のキャラクター人気投票でも1位となった。
- 『無双OROCHIシリーズ』(1、2、3)(2007年、コーエーテクモゲームス、声:竹本英史)
- 『采配のゆくえ』(2008年、コーエーテクモゲームス)
- 『戦国BASARAシリーズ』(3、4)(2010年、カプコン、声:関智一)
- 『無双☆スターズ』(2017年、コーエーテクモゲームス、声:竹本英史)
- 『遙かなる時空の中で7』(2020年、コーエーテクモゲームス、声:平川大輔)
- 『無双アビス』(2025年、コーエーテクモゲームス、声:竹本英史)
- 映画
- 『のぼうの城』(2012年、演:上地雄輔)
- 『関ヶ原』(2017年、演:岡田准一)
- テレビドラマ
- 『関ヶ原』(1981年、演:加藤剛)
- 『真田丸』(2016年、演:山本耕史)
- 『家康と三成のスマホ』(2023年、演:柄本時生)
- 楽曲
- 『夢のあと〜石田三成』(1973年、歌:三田明、作詞:千家和也、作曲:冬木透。コンピレーション・アルバム「戦国の武将」(規格品番:SJX-155)収録)
- 『道、分かつとも』(2010年、歌:竹本英史・杉田智和、作詞:森由里子、作曲:鈴木盛広、「戦国無双3 閃 烈歌奥義」収録、石田三成・加藤清正イメージ曲)
- 『仰ぎて天に愧じず』(2010年、歌:竹本英史・草尾毅・高塚正也、作詞:森由里子、作曲:ARCHIBOLD、「戦国無双3 閃 烈歌奥義」収録、石田三成・真田幸村・直江兼続イメージ曲)
- 『狭霧之彼方』(2010年、歌:竹本英史・山田真一、作詞:森由里子、作・編曲:増田武史、「戦国無双3 飛 翔歌奥義」収録、石田三成・島左近イメージ曲)
- 『夢陽炎』(2010年、歌:さくらゆき、作詞:遠野ゆき、作曲:あきつ、石田三成・大谷吉継イメージ曲)
- 『天晴!』(2011年、歌:竹本英史・草尾毅・高塚正也、作詞:森由里子、作曲:河田真央、「戦国無双3Z 天 轟歌奥義」収録、石田三成・真田幸村・直江兼続イメージ曲)
- 『夢のあとさき』(2014年、歌:さくらゆき、作詞:小栗さくら、作曲:真鍋貴之)
- 『在りし日よ常しえに』(2015年、歌:竹本英史、作詞:宮原康平、作曲:堀内ユウ、編曲:原田ナオ、「戦国無双キャラクターソング其ノ二」収録)
- 『物申す』(2015年、歌:竹本英史、作詞:森由里子、作・編曲:渡辺和紀、「戦国無双ヴォーカル・ベスト2」収録)
- 『草枕之夢』(2015年、歌:竹本英史・草尾毅・高塚正也、作詞:森由里子、作・編曲:佐々倉有吾、「戦国無双ヴォーカル・ベスト2」収録、石田三成・真田幸村・直江兼続イメージ曲)
- 『一騎当千』(2015年、歌:竹本英史・草尾毅・檜山修之・松風雅也、作詞:森由里子、作・編曲:あおい吉勇、「戦国無双ヴォーカル・ベスト2」収録、石田三成・真田幸村・伊達政宗・藤堂高虎イメージ曲)
- 『一期一会でよろしく!』(2015年、歌:竹本英史・山田真一、作詞:森由里子、作・編曲:渡辺未来、「戦国無双ヴォーカル・ベスト2」収録、石田三成・島左近イメージ曲)
- 『万世之絆』(2015年、歌:竹本英史・草尾毅・高塚正也、作詞:森由里子、作・編曲:ARCHIBOLD、「戦国無双ヴォーカル・ベスト2」収録、石田三成・真田幸村・直江兼続イメージ曲)
- 『戦国ロボ「逆転評価 石田三成」』(2021年、歌:カンケ、作詞:土屋亮一、作曲:カンケ)
- ドラマCD
- 『二筋の道』(2009年、声:竹本英史・杉田智和・石川英郎・山田真一・藤本たかひろ、「戦国無双3 光華繚演」収録、石田三成・加藤清正・豊臣秀吉・島左近・福島正則イメージドラマ)
- 『おねね様と三人の子飼い』(2011年、声:竹本英史・山崎和佳奈・杉田智和・藤本たかひろ、「戦国無双ばらえてぃCD」収録、石田三成・ねね・加藤清正・福島正則イメージドラマ)
- 『アイドル戦国時代 <<石田三成編>>』(2015年、声:竹本英史・山田真一、「戦国無双キャラクターソング其ノ二」収録、石田三成・島左近イメージドラマ)
- 舞台
- 『美しき生涯 -石田三成 永遠(とわ)の愛と義-』(2011年、宝塚歌劇・宙組公演、演:大空祐飛)
- 『舞台「戦国無双」関ヶ原の章』(2015年、コーエーテクモゲームス、会場:シアター1010、演:植田圭輔)
- 『舞台「戦国無双」四国遠征の章』(2016年、コーエーテクモゲームス、会場:AiiA 2.5theater Tokyo、演:植田圭輔)
イベント
- 『戦国無双 声優奥義2010 秋 』(2010年、コーエーテクモゲームス、会場:渋谷C.C.Lemonホール、声:竹本英史)
- 『戦国無双 声優奥義2011 秋 』(2011年、コーエーテクモゲームス、会場:パシフィコ横浜、声:竹本英史)
- 『戦国無双 声優奥義2012 秋 』(2012年、コーエーテクモゲームス、会場:中野サンプラザ、声:竹本英史)
- 『戦国無双 声優奥義2014 春 〜祝宴、十年の祭〜』(2014年、コーエーテクモゲームス、会場:パシフィコ横浜、声:竹本英史)
- 『戦国無双 声優奥義2016 〜真田・夏の陣〜』(2016年、コーエーテクモゲームス、会場:パシフィコ横浜、声:竹本英史)
- 『無双フェスティバル 2019 』(2019年、コーエーテクモゲームス、会場:市川市文化会館、声:竹本英史)
マスコットキャラクター
- いしだみつにゃん - 滋賀県彦根市の花しょうぶ通り商店街のマスコットキャラクター
- 三成くん - 滋賀県長浜市の観光PRキャラクター
研究書籍
- 渡辺世祐『稿本石田三成』(雄山閣、1929年)
- 安藤英男『史伝石田三成』(白川書院、1976年)
- 『読本 石田三成』(石田三成公事蹟顕彰会、1982年)
- 桑田忠親『石田三成』(講談社、1982年) ISBN 978-4061317864
- 『石田三成』(旺文社、1983年) ISBN 978-4010705568
- 安藤英男『石田三成のすべて』(新人物往来社、1985年) ISBN 978-4404012586
- 石田多加幸『石田三成写真集』(新人物往来社、1986年) ISBN 978-4404013750
- 今井林太郎『石田三成』(吉川弘文館、1988年) ISBN 978-4642051422
- 白川亨『石田三成の生涯』(新人物往来社、1995年) ISBN 978-4404021793
- 小和田哲男『石田三成「知の参謀」の実像』(PHP研究所、1997年) ISBN 978-4569554426
- 白川亨『石田三成とその一族』(新人物往来社、1997年) ISBN 978-4404025500
- 『石田三成 戦国を差配した才知と矜恃』(学研、1998年) ISBN 978-4056019179
- 佐賀郁朗『石田三成と津軽の末裔「極楽寺系図」の探索から解き明かされた真実。』(北の街社、2003年) ISBN 978-4873730769
- 白川亨『石田三成とその子孫』(新人物往来社、2007年) ISBN 978-4404035097
- 太田浩司『近江が生んだ知将 石田三成』 (サンライズ出版、2009年) ISBN 978-4883251629
- 三池純正『義に生きたもう一人の武将 石田三成』(宮帯出版社、2009年) ISBN 978-4863660540
- 『石田三成 復権!400年目の真実』(新人物往来社、2009年) ISBN 978-4404036445
- 『石田三成 野望!関ヶ原』(新人物往来社、2009年) ISBN 978-4404037350
- オンライン三成会編『三成伝説 現代に残る石田三成の足跡』(サンライズ出版、2009年) ISBN 978-4883254002
- 白川亨『真説石田三成の生涯』(新人物往来社、2009年) ISBN 978-4404037886
- 中井俊一郎『石田三成からの手紙 12通の書状に見るその生き方』(サンライズ出版、2012年) ISBN 978-4883254903
- 別冊宝島編集部編『悲劇の智将 石田三成』(宝島社、2012年) ISBN 978-4800205032
- 矢部健太郎『関ヶ原合戦と石田三成』(吉川弘文館、2013年) ISBN 978-4642064583
- 中野等『石田三成伝』(吉川弘文館、2016年) ISBN 978-4642029346
- 谷徹也編『シリーズ・織豊大名の研究 第七巻 石田三成』(戎光祥出版、2018年) ISBN 978-4-86403-277-3
- 太田浩司編『石田三成 ― 関ヶ原西軍人脈が形成した政治構造』(宮帯出版社、2022年) ISBN 978-4-8016-0274-8
現代の湖東地域と三成
上記のように、江戸時代以降の三成に対する評価はさまざまであるが、滋賀県では、三成の知行地があった湖東(長浜市・米原市・彦根市など)を中心に、観光客誘致や地域おこしのため顕彰対象になっている。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 松浦静山『甲子夜話 6 (東洋文庫 342)』平凡社、1978年。ISBN 978-4582803426。
- 今井林太郎『新装版 石田三成』吉川弘文館〈人物叢書〉、1988年。ISBN 978-4642051422。 (初版は1961年発行)
- 石田多加幸「忠節無比に仕えた股肱の臣 石田三成」『豪壮 秀吉軍団』学習研究社〈歴史群像シリーズ〉、1992年。
- 福永酔剣『日本刀大百科事典』雄山閣、1993年。ISBN 4-639-01202-0。
- 笠谷和比古『関ヶ原合戦』〈講談社選書メチエ〉1994年。 (『関ヶ原合戦 家康の戦略と幕藩体制』〈講談社学術文庫〉2008年。 )
- 安井久善「秀吉の戦略・戦術」『豊臣秀吉合戦総覧』新人物往来社〈別冊歴史読本21巻35号〉、1996年。ISBN 4-404-02407-X。
- 中井俊一郎「秀次・蒲生牢人を吸収、三成苦心の家臣団構成」『決戦 関ヶ原』学習研究社〈歴史群像シリーズ【戦国】セレクション〉、2000年。
- 三池純正『義に生きたもう一人の武将 石田三成』宮帯出版社、2009年。ISBN 978-4863660540。
- 高澤等『戦国武将 敗者の子孫たち』洋泉社、2012年。ISBN 978-4800300287。
- 谷徹也『シリーズ・織豊大名の研究 第七巻 石田三成』戎光祥出版、2018年。ISBN 978-4-86403-277-3。
- 会田康範「石田・上杉共謀説について」(『戦国史研究』23号、1992年)
- 中野等『石田三成伝』[1][吉川弘文館]2016年、ISBN 9784642029346
関連項目
- 石田軍記
- 佐和山遊園
- 若江八人衆
外部リンク
- いしだみつにゃん (@gino3sho) - X(旧Twitter)
- 三成くん (@mitsunarikun) - X(旧Twitter)
- 石田三成 -ZIBU- (@zibumitunari) - X(旧Twitter)
- 三成めし 彦根・米原・長浜市内の飲食店などが考案した「三成公への思い」を込めた飲食メニュー
- 三成タクシー 石田三成ゆかりの地をタクシードライバーによる案内付きでめぐることができる貸切タクシープラン
- 石田堤史跡公園 - ウェイバックマシン(2012年1月14日アーカイブ分)
- 笹尾山 石田三成陣跡 関ケ原観光Web
- 石田三成×滋賀県 ポータルサイト - ウェイバックマシン(2016年2月13日アーカイブ分) 滋賀県観光情報
- 石田三成出生地 滋賀県観光情報
- “石田三成・痕跡一掃、居城「見せしめ」破壊…発掘で裏付け”. 毎日新聞 (2016年3月25日). 2016年9月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年11月2日閲覧。



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