洞院 実雄(とういん さねお)は、鎌倉時代前期から中期にかけての公卿。太政大臣・西園寺公経の子。官位は従一位・左大臣。山階左大臣と号す。洞院家の祖。

娘3人がそれぞれ3人の天皇(亀山天皇、後深草天皇、伏見天皇)の妃となって権勢を誇った。娘たちはいずれも皇子を産み、それぞれ即位したことから、3人の天皇(後宇多天皇、伏見天皇、花園天皇)の外祖父となった。

経歴

以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。

嘉禄3年(1227年)2月1日、叙爵。同年3月4日、侍従に任ぜられる。安貞3年(1229年)1月30日、従五位上に昇叙。同年4月18日、左少将に任ぜられる。寛喜2年(1230年)1月24日、備後介を兼ねる。寛喜3年(1231年)1月5日、正五位下に昇叙。文暦元年(1234年)12月21日、左中弁に任ぜられる。左少将は元の如し。文暦2年(1235年)1月23日、加賀権介を兼ねる。同月28日、従四位上に昇叙。同年2月6日には禁色を許され、閏6月11日には左宮城使に補される。

嘉禎2年(1236年)2月30日、左中弁を止め左中将に任ぜられ蔵人頭となる。同年5月6日、正四位下に昇叙。同年12月18日、従三位に叙される。中将は元の如し。

嘉禎3年(1237年)1月24日、土佐権守を兼ねる。同年12月25日、参議に任ぜられる。嘉禎4年(1238年)3月7日、右衛門督と検非違使別当を兼ねる。同月29日、正三位に昇叙。同年7月20日、権中納言に昇進し、8月28日には右衛門督と検非違使別当を辞した。暦仁2年(1239年)1月24日、皇后宮権大夫を兼ねるが、11月12日に皇后利子内親王が女院(式乾門院)となったために権大夫を止める。仁治元年(1240年)10月24日、従二位に昇叙。仁治3年(1242年)3月7日、権大納言に昇進。仁治4年(1243年)2月2日、正二位に昇叙。寛元2年(1244年)8月29日、父・公経が薨去したために喪に服す。同年11月25日に復任。

正嘉元年(1257年)11月26日、内大臣に任ぜられる。正嘉2年(1258年)11月1日、右大臣に転任し春宮傅を兼ねる。弘長元年(1261年)3月27日、左大臣に転任。弘長2年(1262年)1月5日、従一位に昇叙。弘長3年(1263年)3月20日、上表して左大臣を辞した。文永10年(1273年)8月4日、所労危急のため出家し、同月16日に薨去。

系譜

『尊卑分脈』による。

  • 父:西園寺公経
  • 母:平親宗女
  • 妻:藤原栄子 - 法印公審女
    • 男:洞院公宗(1241-1263)
    • 男:洞院公守(1249-1317)
    • 女:洞院佶子(京極院、1245‐1272) ‐ 亀山天皇皇后、後宇多天皇母
  • 妻:一条頼氏女
    • 男:小倉公雄
  • 妻:藤原蔵子 - 藤原隆房女
    • 女:洞院愔子(玄輝門院、1246-1329) - 後深草天皇妃、伏見天皇母
  • 妻:後嵯峨院但馬局 - 賀茂能直女
    • 女:洞院季子(顕親門院、1265-1336) - 伏見天皇妃、花園天皇母
    • 女:洞院禖子 - 亀山院後宮
  • 妻:主殿司瑠璃女
    • 男:慈順 - 法性寺座主・曼殊院門跡
  • 妻:白拍子無量
    • 男:洞院公尹(?-1300)
  • 生母不明の子女
    • 男:公方
    • 男:公風
    • 男:定勝 - 醍醐寺座主
    • 男:実修
    • 男:守恵(1244‐1313) - 東寺長者
    • 男:公潤
    • 男:公春
    • 女:近衛基平室
    • 女:鷹司基忠室
    • 女:西園寺公蔭室
    • 女:三条公親室
    • 女:後宇多天皇・後醍醐天皇官女(『本朝皇胤紹運録』「後醍醐天皇系図」では名前は洞院実子)

脚注

参考文献

  • 『公卿補任』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編) ※ 嘉禎3年(1237年)に実雄が参議となった時以降の記事。
  • 『尊卑分脈』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編) ※「洞院実雄」および「西園寺公経」の項。
  • 藤原公定 編『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集』吉川弘文館、1903年。doi:10.11501/991583。NDLJP:991583。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991583。 

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