朱雀天皇(すざくてんのう、923年9月7日〈延長元年7月24日〉- 952年9月6日〈天暦6年8月15日〉)は、日本の第61代天皇(在位:930年10月16日〈延長8年9月22日〉- 946年5月23日〈天慶9年4月20日〉)。諱は寛明(ゆたあきら)。
第60代醍醐天皇の第十一皇子。母は藤原基経の娘、中宮藤原穏子。
略歴
延長4年(926年)、東宮となる。立太子の背景には、兄保明親王とその子慶頼王の二代にわたる東宮の夭折があり、母后穏子は怨霊を恐れて、寛明親王を3歳になるまで幾重にも張られた几帳の中で育てたという。延長8年(930年)先帝の醍醐天皇の危篤を受け9月22日に践祚、醍醐天皇はその7日後に崩御、11月21日に8歳(滿7歳3か月)で即位。政治は、伯父忠平が摂関として取り仕切っていた。
治世中の承平5年(935年)2月、平将門が関東で反乱を起こし、次いで翌年には瀬戸内海で藤原純友が乱を起こした(承平天慶の乱)。朝廷は懐柔策を試みたがうまくいかず、天慶3年(940年)、藤原忠文を征東大将軍に任命して将門征伐軍を送り、藤原秀郷の手により将門は討たれた。翌年には橘遠保により藤原純友が討たれ、乱はようやく収束した。
治世中はこのほかにも富士山の噴火や地震・洪水などの災害・変異が多かった。また病弱のためか入内した女御はわずか2人であり、在位中には全く皇子女に恵まれなかった。このこともあってか、天慶7年(944年)4月に同母弟成明親王(後の村上天皇)を東宮(皇太弟)とし、2年後の天慶9年(946年)4月20日に24歳で譲位し、太上天皇となる。その後、後悔して復位の祈祷をしたともいう。天暦6年(952年)に出家して、仁和寺に入った。同年、30歳で崩御。
八歳のとき、危篤の父帝より遺言を託されるが、貞信公よりそれを聞き返された時折、三番目は忘れたという。
1952年(昭和27年)9月11日、皇居皇霊殿にて朱雀天皇千年式年祭の儀が行われた。また、陵所において朱雀天皇山陵千年式年祭の儀が行われ、奉幣のための勅使として掌典の酒井忠康が参向した。
在位中の重臣一覧
系譜
系図
后妃・皇子女
- 女御:煕子女王(? - 950年) - 皇太子保明親王女
- 昌子内親王(950年 - 1000年) - 冷泉天皇中宮
- 女御:藤原慶子(? - 951年) - 左大臣藤原実頼女
追号
譲位後、朱雀院を後院としたため、「朱雀院」と追号。
在位中の元号
- 延長
- 承平
- 天慶
陵・霊廟
陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市伏見区醍醐御陵東裏町にある醍醐陵(だいごのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。
北西にある父帝醍醐天皇の後山科陵からは遠くない位置にある。古くは醍醐天皇陵が「上ノ御陵」、朱雀天皇陵が「下ノ御陵」と呼ばれていた。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
脚注
関連項目
- 安久美神戸神明社




