宇津城(うつじょう)は、京都府京都市右京区京北下宇津町(旧・丹波国桑田郡宇津荘)にあった中世の日本の城。
概要
宇津城は、宇津荘を支配した国人・宇津氏の居城。
下宇津集落の八幡神社背後の山にある城で、標高356m、比高150mの場所に位置する。下宇津集落を挟み、南を流れる桂川に面しているが、日吉ダム対策のための護岸整備に伴って、川沿いの地形は変化している。
築城年代については、大永6年(1526年)に細川高国に味方したとされる宇津頼高の代との推測がある(なお、一次史料で確認できる当時の宇津氏当主の名は、頼高でなく元朝)。
沿革
宇津氏は文明年間(1469–1487年)から史料上に姿が見える。
永正8年(1511年)に宇津元朝が細川高国方として出陣するなど、宇津氏は丹波守護である細川高国の被官として活動していた。高国敗死後、宇津氏は細川晴元に従ったが、天文11年(1542年)4月、波多野秀忠と晴元の重臣・三好政長により宇津城が攻められた(『親俊日記』)。
晴元が三好長慶と対立した際は、宇津氏は晴元方に付いている。天文18年(1549年)の江口の戦いで京を追われた晴元は、天文21年(1551年)9月末頃、宇津に入り、この地を本拠とした。同年11月、晴元は波多野秀親に対し、「宇津要害」への入城を求めている。
元亀4年(1573年)、将軍・足利義昭と織田信長が対立する最中、宇津長成が御供衆に任じられ、いざという時の義昭の動座先に宇津が位置づけられている。
天正3年(1575年)、宇津氏や内藤氏、赤井氏の討伐のため、信長が明智光秀を丹波に派遣。天正7年(1579年)7月、宇津城は光秀に攻められ落城した。
その後、宇津城は光秀により一部改修されたが、天正9年(1581年)には周山城の築城が完了しており、これにより宇津城の役割は終わったとされる。
遺構
南北30m、東西30mほどの曲輪I(本丸)、その北に南北25m、東西10mほどの曲輪II、さらにその北に南北40m、東西13mほどの曲輪IIIがある。また、曲輪Iの南には腰曲輪IVがあり、山麓から伸びる道がここにつながる。
腰曲輪や、腰曲輪から曲輪Iに入る虎口周辺には石積みがあるが、これらが明智光秀による改修跡とみられる。
アクセス
自動車
- 国道162号を京都市内から北に約40分、周山から宇津方面に向かう。
バス
- 西日本JRバスで京都駅から周山へ約1時間30分、京北ふるさとバスで周山から下宇津へ約15分。
脚注
参考文献
- 高橋成計「丹波宇津氏の動向と城郭遺構―城郭から考察する宇津氏―」『中世城郭研究』第31号、2017年。
- 高橋成計『明智光秀の城郭と合戦』戎光祥出版〈図説 日本の城郭シリーズ13〉、2019年。ISBN 978-4-86403-329-9。
- 福島克彦『畿内・近国の戦国合戦』吉川弘文館〈戦争の日本史11〉、2009年。ISBN 978-4-642-06321-0。
- 福島克彦『明智光秀』中央公論新社〈中公新書〉、2020年。ISBN 978-4-12-102622-4。
関連項目
- 日本の城一覧
外部リンク
- 日本歴史地名大系『宇津城跡』 - コトバンク
- 宇津城跡 - 京都府教育委員会文化財保護課


